Wednesday, September 1, 2021

「タリバン抜き」で始まり「タリバンとの和平」に終わったアメリカ平和構築の必然的迷走 アフガニスタン「敗戦」の検証(2) フォーサイト-新潮社ニュースマガジン:時事ドットコム - 時事通信

篠田英朗

「アフガニスタンはパシュトゥーン人でなければ統治できない」――アメリカによる平和構築のプロセスを振り返れば、この「仮説」が国家建設の枠組みを決定的に歪めていた。2001年ボン合意から2020年ドーハ合意までの迷走の根源を探る。

「アメリカはアフガニスタンについて無知で傲慢だから失敗した」と言われる。そうかもしれない。だが、それは具体的な政策レベルでは、何を意味しているだろうか。アフガニスタン平和構築の枠組みに沿って考えてみたい。

タリバン不在のまま締結された和平合意

 アフガニスタンの平和構築の枠組みを語るときに、ほぼ定説になってきているのが、「ボン合意の不適切さ」である。

 ボン合意とは、2001年にアメリカの攻撃によってタリバン政権が崩壊した直後に、アフガニスタンの国家再建の枠組みを定めるためにドイツで開催された会議の合意文書のことだ。新たなアフガニスタン政府の形成の道筋を定めたボン合意は、結果的に「ボン・プロセス」と呼ばれたボン合意履行期間を越えて、アフガニスタンの国家建設の枠組みを決定し続けた。

 今日の国際社会主導の紛争解決においては、紛争当事者が調印する和平合意の締結を通じて、その後の平和構築の枠組みを決めていくことが標準的なやり方だとみなされている。アフガニスタンの場合に、和平合意に相当する機能を果たしたのがボン合意であった。

 ただし、ボン合意は厳密な意味での和平合意ではなかった。なぜなら紛争当事者の一方であるタリバンの参加がなかったからである。これがアフガニスタンの平和構築が背負った大きな制約であったことは、当初から自明であった(私は2003年の著作『平和構築と法の支配』=創文社刊=の時点からこの点について論じている)。

 しかしだからといって、「ボン合意にタリバンを入れればよかった」、「ボン合意にタリバンを入れなかったことが失敗の原因だ」と簡単に言えるわけではない。なぜならタリバンを加えた和平合意など不可能であったがゆえに、タリバン不在のボン合意が締結されたからである。タリバン不在の欠陥があるくらいならボン合意など締結しないほうがよかった、と言うのであれば、他の政策的代替案がありえたのか、について真摯に考えなければならない。

 2001年ボン合意におけるタリバンの不在は、米軍の完全撤退を定めた2020年ドーハ合意におけるアフガニスタン政府の不在と、明確なコントラストを描く。アフガニスタンの平和構築は、紛争当事者の一方であるタリバンが不在のまま開始された。20年後、もう一方の紛争当事者であるアフガニスタン政府が排斥された合意によって、終結していくことになった。

 この軌跡の持つ意味を考えることなくして、アフガニスタンにおける平和構築の欠陥を論じることはできない。

ブッシュ政権が北部同盟を選ばなかった理由

 2001年の軍事攻撃でタリバン政権が崩壊すると、アフガニスタン担当国連事務総長特別代表の肩書を持っていたラクダル・ブラヒミは、アフガニスタンに新国家を樹立する道筋を定めるための国際会議を開催することを呼び掛けた。もちろんアメリカの意向も踏まえたうえでのことであった。欧州のアメリカ同盟諸国のアフガニスタンへの深い関与も予定されていたため、会議はドイツのボンで開かれることになった。そこで合意された内容が「ボン合意」と呼ばれるようになり、アフガニスタンの国家再建の枠組みを形作ることになった。

 2001年、パキスタンのパルヴェーズ・ムシャラフ軍事政権は、庇護してきたタリバン政権を見捨て、アメリカの領空飛行を認める決断をした。ムシャラフ政権は代わりに、非パシュトゥーン系の勢力が形成する北部同盟軍が全権を掌握する事態を防ぐように、ブッシュ(子)米政権に強く働きかけ続けた。

 タリバン政権が崩壊した際、ジョージ・W・ブッシュ大統領は、アメリカが陸上兵力を派遣するまで首都カブールに入らないように北部同盟軍に要請したが、北部同盟軍はこれを無視する形でカブールに入城した。

 ブッシュ政権が「国家建設」を掲げてアフガニスタンに介入した、というのは神話である。むしろ当初は「国家建設」を目的にした介入であることを否定していた。しかしアメリカはタリバンを駆逐する判断をし、北部同盟軍による全権掌握による地域情勢の暗転を懸念する立場から、地上部隊による継続介入の度合いを深めていかざるをえなくなった。

 さらに同時に、平和維持機能を担うことになった国際治安支援部隊(ISAF)を構成するNATO(北大西洋条約機構)諸国の軍事的関与も必要とされることになった。

 こうした大規模な介入が、アフガニスタンの国家建設への真剣な心配によるものであったとは言えない。むしろタリバン政権崩壊後の「力の空白」が再び国際テロ組織の温床になることを恐れつつ、北部同盟軍を主導とした統治体制も周辺国の警戒心などもあって期待できないという認識があり、アメリカは自己の国益に合致する結果をもたらしてくれる中央政府を強く望んで、介入の度合いを深めていったのだ。

 後にブラヒミは、ボン会議にタリバンを招くことができなかったのが失敗だった、と述懐した。だがタリバンが参画する新政府は、交戦中のアメリカが許すはずはなかったし、タリバン側の反応も得られたかどうかはわからない。したがって、より現実的な選択肢は、アフガニスタンを制圧した北部同盟軍を主導した統治体制を認めていく方向性であったはずだ。もし北部同盟軍主導の政府が、タリバン勢力を抑え込むだけでなく、国際テロ組織の台頭も防いでくれるのであれば、アメリカは小規模な軍事力の維持だけで、アフガニスタンにおける安全保障上の目的を達成することができたはずだ。

 しかしブッシュ政権は、それを選択しなかった。その背景には、パキスタンなどからの働きかけを意識しすぎたという要素もあるが、それも含めて、当時のアメリカが証明不可能な仮説にとらわれていたことが大きい。本稿前編『アメリカの「良いタリバン」仮説は歴史に耐えるか』では、現在の撤退の背景にある仮説を提示したが、アメリカはアフガニスタン統治のスタート時点でも1つの仮説を前提にしている。

 それは、わかりやすく表現すれば、いわば「アフガニスタンは、パシュトゥーン人以外には統治できない」とでもいうべき仮説である。ボン合意の調停者であるブラヒミは、最大民族であるパシュトゥーン人の存在感を高めることを強く意識していた。それがアメリカの意向にも合致した。北部同盟軍は、タジク人などの少数民族系の勢力の集合体であった。一方タリバンこそが、アフガニスタンの最大民族集団のパシュトゥーン人を代表する勢力であった。

 アフガニスタン内戦を民族紛争と捉えたうえで、上記の仮説をあてはめるのであれば、北部同盟軍には、最大民族集団であるパシュトゥーン人の信望を集めて統治を進めることはできない。そうなると、タリバン排除の決定は、北部同盟軍を信頼して平和構築を進めるという選択肢にはつながらず、非タリバンのパシュトゥーン人を見つけなければならない。この考え方から、ボン合意の本質的に人工的な性格が生まれてくる。

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